City Bus Lovers・玄琢特六企画 附属ブログ

City Bus Lovers・玄琢特六企画 附属ブログ。濃い乗り物(バス)ネタを狭く深く。

渋沢家と大阪市内バス

きょう26日で最終回を迎えたNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公で2024年から発行される新1万円札の肖像にも採用された、実業家の渋沢栄一(1840-1931)。

栄一本人だけでなく子息も戦前期の経済界で活躍しましたが、1924年に産声を上げた大阪市内バスと渋沢家に実は少しだけ関わりがあるのでこのタイミングでちょっと掘り下げ。

渋沢栄一が生涯で関わった企業は約500社。交通系の企業だけでも今の京阪電鉄小田急電鉄など、誰でも知っているような大企業に参画した渋沢。

栄一には成人した男子の子供が4人いましたが、大阪市内バスに関わりがあったのは後妻・兼子のあいだにもうけた四男の渋沢正雄(1888-1942)。『青天を衝け』でも最終回間際に竹内寿さんが演じた彼。

 

正雄は汽車製造(川崎重工業に吸収合併)や秩父鉄道等の取締役を歴任するなど、父・栄一と同じく多くの企業の経営に参画。

1920年代初頭、大阪市内に民営で路線バスを立ち上げようとした際に、すでに路線バスが開設されていた東京のノウハウを取り入れようと、青バス(東京乗合自動車)で取締役を務めていた寺尾芳男(1891-1961)ら東京で活躍していた人材が酒井猪太郎(1879-1932)を筆頭とする大阪の経営陣らに相乗りする形で参画。

旧大阪バス(大阪乗合自動車)立ち上げ時の取締役10名のなかに、常務となった寺尾を筆頭とする「東京組」の1人として渋沢正雄が取締役として名を連ね、渋沢家と大阪市内バスに接点ができる形に。

旧大阪バスの初期は経営の内情がかなり混乱し、その途中経過をすべて書くことができないのが残念ですが、創設1年後の1925年夏に起こった東京組撤退の先陣を切って正雄は旧大阪バスの取締役を辞任。

正雄が旧大阪バスの取締役に在任していた期間は1年4ヶ月。東京組の主導は寺尾だったのと正雄自身も関東に在住し続けたこともありほぼ名目だけに近い取締役だったものの、確かに渋沢家と市内バスがわずかに接点があったのは確かでした。

 

ブログの形で掘り下げるのには限界もありますが、市内バスの始祖・旧大阪バスに当時関わっていた経営陣はまた機を見て紹介するかもです。

 

【参考文献】
公益財団法人 渋沢栄一記念財団ホームページ https://www.shibusawa.or.jp/ 2021年12月26日閲覧。
大阪乗合自動車『大阪乗合自動車営業報告書』、1924-1925、第1回~第3回。
武知京三『近代日本交通労働史研究』、日本経済評論社、1992。
『官報』、各号。
『人事興信録』、各号。
『日本紳士録』、各号。